私たちは死んだらどこに行くのでしょうか?


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いい質問ですね。私自身も同じように尋ねたことがあります。これを理解するためには、いくつかの点に注目する必要があります。

まず「地獄」とは何でしょうか。
そしてパウロが死者について「眠り」と言ったとき、それは何を意味しているのでしょうか。

パウロは、コリント人への手紙一 15:51 とテサロニケ人への手紙一 4:14 で「眠り」という言葉を使っていますが、コリント人への手紙一 15:52 とテサロニケ人への手紙一 4:16 では「死」という言葉を使っています。

これは、眠りとは私たちの肉体の死も意味していることを示しています。


聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
コリント人への手紙第一 15:51

ここでの「眠る」という言葉は「死亡」を意味します。

52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
コリント人への手紙第一 15:52-53

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
テサロニケ人への手紙 第一 4:16

パウロはここで復活について語っていますが、それは肉体の復活であって、霊魂の復活ではありません。霊魂は死んでいないからです。


私たちは自信をもって言えます、むしろ肉体を離れて主のみもとに住む方が良いと思っています。

コリント人への手紙 第二 5:8

ですから、「眠り」というのは、実際には肉体が死ぬことであり、魂が死ぬことではないことがわかります。肉体が死んでも、私たちはまだ生きており、アブラハムの懐にいるか、苦しみの場所にいるかのどちらかです。

注目すべきは、ルカの福音書では、物乞いが死んでアブラハムのいる場所に行くこと、そしてその良い場所と悪いの場所の間には、大きな隔たりがあることです。


19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
22
やがて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた死んで葬られた。
23そして、金持ちがよみで苦しみながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロが、はるかかなたに見えた。
24そこで、金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、彼らはその言うことを聞き入れはしないだろう。』

ルカの福音書16:19-31

アブラハムの「懐」が意味するのは、シェオルの一部であり、エノク書によれば「選ばれた者たちのための場所」であり、「初めから住んでいた最初の父祖たちと義人たち」が住む場所なのです。


ここで、聖書の正典には地獄についてどのような情報があるか見ていきましょう。


「地獄」という言葉は、実際にはハデス(NT)またはシェオル(OT)です。

OT:7585 she'owl (sheh-ole');または(sheh-ole') シェオール
OT:7592;ハデスまたは死者の世界(まるで地下の隠れ家のように)、その付属品や囚人を含む:
NT:86 haides (hah'-dace);NT:1(負の粒子として)およびNT:1492から。正しく、目に見えない、つまり「ハデス」または亡くなった魂の場所(状態)

それは死者の魂が行く場所です。
さまざまな階層があります。


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神は罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。
ペテロの手紙 第二 2:4

NT:5020 タルタル (tar-tar-o'-o);タルタロス(ハデスの最も深い深淵)から。永遠の苦しみに幽閉する:

最も深い深淵は、「最も深い」階層よりも「浅い」階層が必要であるため、複数の階層があることを示しています。 タルタルーは、2ペテロ2:4の審判の日までに天使たちに確保されている場所(ハデスの最も深い深淵)です。 アブラハムの懐は、これとは別の部分にあり、渡ることのできない完全に通行不可能な淵によって隔てられています。
イエスキリストが3日間埋葬されている間に訪れてくださった際のシェオルの様子が、どれほど素晴らしかったか想像に難くありません。

イエスは彼のそばにいる強盗に言われました、「きょう、あなたは私と一緒にパラダイスにいます」(ルカの福音書 23:43)。彼は「地獄で会いましょう」とは言いませんでした。イエスの遺体は墓にありましたが、彼の魂/霊は、シェオル/ハデスで祝福された人々のもとに行きました。

主の日まで、イエスが私たちと同じように「地獄に置き去りにされた」のではないのです。


それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
使徒の働き 2:31

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シェオル/ハデスは、祝福の場所と裁きの場所という複数の区分を持つ領域です (マタイ 11:23、16:18、ルカ 10:15、16:23、使徒 2:27–31)。

聖書では、「救われた者の住まい」と「失われた者の住まい」はどちらも「ハデス」または「シェオル」と呼ばれています。救われた者の住まいは、ルカ 16:22 では「アブラハムのふところ」、ルカ 23:43 では「楽園」とも呼ばれています。救われなかった者の住まいは、ルカ 16:23 では「地獄」と呼ばれています。救われた者の住まいと失われた者の住まいは、「大きな淵」によって隔てられています (ルカ 16:26)。イエスは亡くなると、シェオルの祝福された側に行きました (エペソ 4:8–10)。シェオル/ハデスの裁きの側には 3 つの部分があります。不信仰な死者は皆、将来の最後の審判を待つためにそこへ行きます。
イエスはシェオル/ハデスへ行ったのでしょうか?
はい、エペソ人への手紙 4:8–10 および 1 ペテロ 3:18–20、4:6 によればそうです。


聖書外の書物にエノク書があります。これは死海文書の中から発見されたものです。エノクは、ユダとペテロの両者によって引用されており、創世記とヘブライ人への手紙ではエノクがエリヤのように主のもとに連れて行かれたと書かれています。この預言書は、シェオルについてより深い理解を与えてくれます。

エノク書 22 章では聖書でいままで見えていたものよりも、地獄について詳細に説明されています。

地獄には複数の「階層」や「部分」があります。地獄は死者の場所であり、他の部分へ渡る方法はなく、ある部分は罪人用、よい部分は神の聖者用です。

エノク書では、人間の魂が分離され、審判の日まで保管されるシェオルの 4 つの部分があることが示されています。一部の人々は「審判の日に殺されることも、そこから蘇ることもない」ことが分かります。これらの人々は永遠に地獄に留まります。


そこには、義なる死者のための「明るい水の泉がある」場所があります。
エノク書 70 章 - エノクは「選ばれた者たちのための場所」に連れていかれ、そこで「初めから住んでいた最初の父祖たちと義なる者たち」を見ました。エノクは、義なる者たちが皆休息し、主の日を待っているシェオルのよい場所に連れて行かれたのです。

ここは、キリストにあって死んだすべての者たちが休息し、主の日を待っている場所です。

これが、ペテロが福音は死者にも宣べ伝えられ、イエスが 3 日間死んでいたときに「降臨」したと言っている理由です。


このために、死んだ人々にも、福音が述べ伝えられていたのです。人間の目には肉においてさばきを受けたように見えても、神の目には霊において生きるためです。
ペテロの手紙 第一 4:6

7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所にのぼったとき、捕虜をつれていき、人々に贈り物を与えられた。
9「のぼった」ということは、彼が低いところ、つまり地の下に下られたということでなくて何でしょうか。
10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高くのぼられた方でもあります。

エペソ人への手紙 4:7-10

これはルカ16章にある「アブラハムのふところ」です。主を待ち望むすべての人々がいる場所です。

これらを完全に理解するためには、「地獄」とは「火の池」(黙示録20:11-15)と同じではなく、複数の部分があるということを理解する必要があります。ほとんどの人が信じている場所とはまったく異なるのです。

最後にいくつか注意点があります。


子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉と、自分たちが立てた証のゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。

ヨハネの黙示禄 6:9

祭壇の下の魂(休んでいる)、眠っている魂、そして肉体から離れている魂は、すべてシェオルのよい場所にいることを象徴しています。

また、サムエルは死後この世に蘇り、モーセとエリヤは変容した姿で、イエスと話していました。
誰も霊的に死んではいません。


サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めてくるのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」
サムエル記 第一 28:15

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
マタイの福音書 17:3

エリヤ(新約聖書のエリアス)は死ぬことなく、神によって天国に召されました。そして、モーセはイエスと話しているとき、エリヤと一緒にいました。
モーセは実際に死んだので、二人とも現れてイエスと話すことができることがわかります。

体は死んでも霊は死んでいない例がたくさんあります。

私たちはいわゆる天国に行くのではなく、主の日を待つための休息の場に行くのです。


マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
マタイの福音書 17:3

ですから、死んだ人々は皆、シェオルのどこかで主の日を待っています。
ある者は裁きを、ある者は永遠の命を待ちます。

主よ、あなたの血と恵みと慈悲に感謝します。私たちはあなたと永遠を過ごすことができます。あなたの御名を讃えます。


さらに詳しい情報は以下のページからご覧ください(英語/日本語に翻訳予定です。):

Notes on the Book of Enoch

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オリジナルサイト(英語)bibleprophecyandtruth.com

英語の元記事へのリンク    

Where Do We Go When We Die