イエスキリストとは誰なのか
イエスへの共通認識をご存じだろうか。親切、忍耐強い、柔和、温和? たしかに真実ではあります。しかし、ヨハネ 8 章では、そうではありません。パリサイ人に対して議論をし、イエスが彼らの心の中まで見通していることを伝えました。
罪こそが彼らを奴隷にしているのだと、イエスは彼らに告げました。しかし、彼らがイエスを信じるなら、イエスは彼らを解放することができるのです。
パリサイ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり、誰の奴隷にもなることはありえないと主張しました。 イエスは、彼らが真のアブラハムの子孫であるならば、アブラハムがしたように、神に耳を傾けるだろうと反論します。そこで、イエスは彼らが本当は誰に属しているのかと問いかけました。
イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたは私を愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。
43 あなたがたは、なぜ私の話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あながたがの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。
悪魔は偽りを言う時、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
あなたがたのうちの誰が、わたしに罪があると責めることが出来ますか。
私が真実を話しているなら、なぜ私を信じないのですか。47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなた方が聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。
これを聞いたパリサイ人がどう反応したかご存知ですか?
なんと彼らはイエスを罵り始めたのです!冗談ではなく本当です。彼らはイエスをサマリア人と呼びました(人種差別的な中傷です)。そしてイエスは悪魔に取り憑かれていると言いました(宗教的な中傷です)。
イエスは引き下がらず、いくつかのことを伝えた後にこう言いました。
51 まことに、まことに、あなたがたに言います。誰でもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。
53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。
56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを大いに喜んでいました。
そしてそれを見て喜んだのです。」57 そこでユダヤ人たちはイエスに向かって言った。
「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムがあなたを見たのか。」
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。
アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです。
59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれました。
「I Am / わたしある」というフレーズは神だけが使うものだということを覚えておいてください。ですから、ここでもイエスは明らかに自分の正体を明かしています。
イエスが自分が神であると主張したことは一度もないと言う人は、福音書を読んだことがない人たちです。
神は霊です。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形を取って宿っています。
神のかたちであるキリスト
(イエスは)…神の本質の完全な現れ
(イエスは)見えない神のかたちであり
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、誰が罪を赦すことができるだろうか。」
するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」
イエスは神です。
つまり、神自身が人間として地上に来られ、私たちのために命を捧げ、私たちの魂を救い、私たちの間を歩き、神を愛する人々の間で永遠に生きることができるのです。
異宗教間主義、つまりすべての宗教が同じ神を崇拝しているという主張には真実が含まれているのでしょうか?
それとも、イエスが唯一の道なのでしょうか?
今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こった時、あなたがたが信じるためです。
預言は、わたしたちが信じる助けとなります。そして、25,000 以上の考古学的発掘調査により、聖書が 100% 正確な歴史であることが証明されています。さらに、聖書には誤った預言は一度もありませんでした。
聖書から少しでも逸脱すると、真実は歪曲され、汚され、真実ではなくどこか別の所に行き着くことになります。イスラム教やユダヤ教のような宗教は、聖書の好きな部分だけを取り上げ、残りの部分は無視しています。イスラム教の教義では、聖書全体を信じるとされていますが、好きな部分だけを選び、嫌いな部分は聖書の「歪曲」だと言い張ります。ユダヤ教はイスラム教と同様、イエスが救世主であると信じておらず、救世主の到来を今も待っています。キリスト教でさえ、教義上の逸脱は多く、信仰の範囲は極端に広いのです。
カトリック教会は異教徒間主義の推進力の一つであり、すべての宗教が同じ神を崇拝しているという嘘を広めています。これはまったくの間違いです。例えば、アッラーが異教の神であることをご存知でしょうか。実際、アッラーは太陽の女神と結婚した月の神であり、星はアッラーの娘たちでした。イスラム教徒はアブラハムの神を崇拝していると言いますが、これは誤りであることが証明されています。また、ローマカトリック教会は、救われるためにイエス・キリストを信じる必要は実際にはないと言っています!(カテキズムの第841条には、イスラム教徒はキリスト教徒と同じように救われると書かれていますが、イスラム教徒はイエスを信じていません)。これはイエス・キリスト自身の言葉と真っ向から矛盾しています。
それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。
御子(イエス)を信じるものはさばかれない。信じないものはすでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じなかったからである。
この方以外には、だれによっても救いはありません。
天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
イエス以外の名前には救いはありません! モハメッドでも、仏でも、他でもありません…
イエスは単なる人間や預言者ではなく、全能の神が自ら顕現した人間の体だからです。次のものをご覧ください。
だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。
「キリストは肉に置いて現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で述べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。
アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです。
1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。.....
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。....その名はこう呼ばれる。「... 力ある神、永遠の父...」
見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。それは訳すと、「神がわたしたちとともにおられる」という意味である。
8 神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」... 17 わたしは初めであり、終わりであり、 18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また死とよみの鍵を持っている。
イエスは彼に言われた。「ピリポよ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは「私たちに父をみせてください」と言うのですか。
私と父は一つです。
子供が生まれ(イエス)、彼は「全能の神」、「永遠の父」、「我々と共におられる神」と呼ばれる。神は肉体に現れた(イエス)。言葉は神であり、肉体となった(イエス)。誰が生きていて、誰が死んだのでしょうか?イエスです。イエスは「アブラハムが生まれる前から、私はいる」と言いました。これは力強い言葉です!イエスは神です!イエスを見た者は、父を見たのです。イエスは「私と父とは一つである」と言いました。
また、ほかにも文脈が同じことを示している箇所が多くあります。同じ文脈でイエスと神について言及しています。例えば:
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去った。イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。
伝道者や司祭だからといって、その人の言葉を真実だと鵜呑みにしないように注意してください。教会や教えは多種多様ですが、真実はただ一つです。
教会の神学が「広く」または「広範」で、多くの人がそれを理解し従っている場合、彼らはどちらの道を教えているのでしょうか。広い道ですか、それとも狭い道ですか。イエスはどちらの道を行くべきだとおっしゃったのでしょうか。
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていくものが多いのです。14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
神は....世を愛された。
….新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。
この恵みのゆえに......救われたのです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
私の肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
ある人たちが教えているのは、信じれば救われると聖書に書いてあるということです。それは事実です!確かにそう書いてあります。ここヨハネの福音書では、イエスの体を食べたり飲んだりすれば救われると書いてあります。これは、救われるためには聖餐式(「エウカリスト」の日本語訳)を受ければいいという意味でしょうか?(象徴的にイエスの体を食べたり飲んだりする/パンとぶどう酒)この聖句を教義にしたいならそうすることもできます。でもそれは馬鹿げた話ですよね?ではなぜ私たちは同じような教義で人々を騙すのでしょうか?私たちは聖書を全体として受け止め、一部だけではなく、神が言うことすべてに従わなければなりません。
私たちは恵みにより、そしてイエス・キリストを信じることで救われるのですが、イエスが言ったように、なぜ私たちは彼を主と呼びながら、彼の言うことを行わないのでしょうか?
なぜあなたがたは、わたしを『主よ主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
神を本当に愛しているのなら、なぜ従わないのでしょうか。ここで私が主張しているのは、多くの人が本当に神に人生を捧げず、心から悔い改めていないということです。
多くの人は、祈りさえすれば魂が救われると教えられてきました。しかし以下の肝心な部分を教わってはいません。つまり、祈りを真剣に捧げなければならず、その言葉を唱えることで救われるのではなく、自分の心と考えを変え、自分が罪人であることを認め、それらの罪を悔い改め、救い主に服従し従うようになることで、救われるのだということです。
私たちは、今日の世界に蔓延している薄められた「キリスト教」に従わないように、細心の注意を払わなければなりません。私たちは自分自身を救うために何もできません。イエスキリストが十字架上ですべてを成し遂げました。しかし、悔い改めさえしないほど「何もしない」ことに固執する人々の言うことに耳を傾けてはいけません。考えが変われば、私たちは何かをしていることになります。悔い改めれば、私たちは何かをしていることになります。
イエスは、救われる(神の王国を見る)方法は「新しく生まれる」ことだと言いました。驚くべきことに、ほとんどの人はそれが何を意味するのか説明できません。
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。
人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
あなたは神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれる。
私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者がはいるのです。22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。わたしはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。』
イエスに「主よ、主よ」と言う者が皆、天国に入るわけではありません。真理を知らない人々に騙されないように気をつけてください。ただ口で信じて告白するだけでは十分ではないということです。
使徒の働き 8では、信じて洗礼まで受けたシモンの物語が書かれていますが、使徒の働き 8章 21 節でペテロが言ったように、
「おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。..」
さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの結末は、どうなるのでしょうか。
ですからあなたは、私たちの主を証することや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
パウロは福音を宣言します。
キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、そして復活した。
これが福音です。
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。3…キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、...
福音とは、イエスの死、埋葬、そして復活です。新しく生まれるということは、私たちの魂の死、埋葬、そして復活です。福音に従うということは、新しく生まれることです。
それは私たちは何をどうすればいいのでしょうか?
死
ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、全ての人に悔い改めを命じられておられます。
ダマスコにいる人々をはじめ、エルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと述べ伝えてきました。
完全に悔い改め、イエス・キリストに人生を捧げることで、私たちは自己を葬り去ります。
埋葬
埋葬とは、水に浸す行為、つまり罪の赦しのためにイエス・キリストの名において洗礼を受けることです。
洗礼の元来のギリシャ語は、baptizo (bap-tid'-zo) で、浸す、沈める、圧倒する (つまり完全に濡れさせる) という意味です。バプテスマ= 洗礼
イエスはこう言いました。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦して頂くために、悔い改めて、イエスキリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマ(洗礼)を受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマ(洗礼)を受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
これは、洗礼があなたを救うという意味でしょうか? いいえ、洗礼だけでは救われません。洗礼は神に従順であるということと、そして福音に従うということの一部です。使徒の働き 8:21 のシモンのように、洗礼を受たものの、彼の心は正しくありませんでした。重要なのは心であり、洗礼における従順はその一部にすぎません。私が言いたいのは、イエスの隣で十字架にかけられた強盗のようなものです。
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
この人は洗礼を受けませんでしたが、イエスは彼が自分とともにパラダイスにいるとはっきり言われました。
洗礼を受ける能力がなく、その機会を得る前に死んだら、地獄に堕ちるのでしょうか?
- いいえ。
しかし、洗礼を受けるべきでしょうか?
- はい! 絶対必要です。
ローマ人への手紙第6章に書かれているように、私たちはイエス・キリストの洗礼を受けるべきです。そして、洗礼を受けなさいというイエスの命令に従わなければなりません。
たしかに洗礼があなたを救うものではなく、洗礼を受けることで救いが保証されるものではないのですが、イエスと福音に従うために必要な行為であるということを、あなたに理解してもらいたいだけです。真の信仰と悔い改めは、その人を神の救いの計画に従わせるようになります。常にそうです。
復活
私たちは聖霊の賜物を受けることによって復活します。
いくつかの教会では、洗礼とは「聖霊による洗礼」であり、水による洗礼ではないと教えています。しかし、パウロがイエス・キリストの名において再び洗礼を施したこと(使徒行伝 19:5)や、ペテロが異邦人に聖霊に満たされた後に水の洗礼を受けるよう命じたこと(使徒行伝 10:47)に注目してください。
イエスと使徒たちが語っている洗礼は水の洗礼です。
それは福音に従うことの一部です。
聖霊を受けることは神からの約束であり、私たちが自分で獲得したり行ったりできるものではありません。
まだこれでも、疑問が残ります。神は私たちに何を期待しているのでしょうか。
生まれ変わるとは、実際には何を意味するのでしょうか。救われるために人は何をしなければならないのでしょうか。
イエスは神が肉体に現れたものであり、私たちと同じように女性から生まれ、地上を歩かれ、私たちの代わりに死ぬために来られたことを理解することが重要です。
罪の罰は死であり、イエスが私たちのために代価を払いました。
イエスは死に、埋葬され、そして復活しました。これが福音です。
イエスは、これを信じて罪から離れ(悔い改め)、従順に主に従う人々を集めるために戻って来られます。それが救いの道です。
主 イエス・キリストは愛と慈悲深いお方です。この偉大な救いの計画を私たちに与えてくださったのは、神の愛と慈悲のためです。しかし、聖書は、神の計画を拒否する者は滅びると明確に教えています(テサロニケ第二 1:8、コリント第二 4:3)。神の慈悲が神の計画に従わない人々を正当化すると考えるような道に踏み込まないように、私たちは注意する必要があります。同じ議論は、生涯ヒンズー教に囲まれて暮らしてきたインドに住む人々が、イエスを信じていないという理由だけで滅びるはずがないと言う場合にも使えます。キリストを信じていないからといって、神がそのような人々を滅ぼすほど無慈悲な方ではないと主張する人がたくさんいます。その時点で、私たちは「普遍的な救い」、つまりすべての人が救われるという場所にいます。それが真実であると言いたいところですが、そうではないことはわかっています。神はソドムとゴモラの町を滅ぼしました。なぜなら彼らは邪悪で(性的に逸脱し)、神に従わなかったからです。神は洪水で地球全体と何百万もの人々を滅ぼし、ただ一つの家族だけを救いました。なぜなら他の人々は邪悪で、神を認めず、愛し、従わなかったからです。神は素晴らしい愛情深い創造主ですが、神を否定する者に対しては怒りの神でもあります。
私たちは絶えず神の御顔を求めなければなりません。悪魔は常に私たち一人一人を真理から引き離そうとします。その昔のエデンの園でもそうでした。悪魔がイブに最初に尋ねたのは、「神が本当にそう言ったのか?」でした。悪魔は6000年もの間、その戦術をほとんど変えていません。だからこそ、私たちが絶えず祈りを込めて神の言葉を掘り下げることがとても重要なのです。悪魔の「神がそう言ったのか?」に対する私たちの答えは、常に、「聖書にこう書いてある」です。
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦して頂くために、悔い改めて、イエスキリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。 39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいる全ての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
この約束は、主イエス・キリストの福音を信じ従うすべての人に与えられています。イエス様、ありがとうございます。彼の犠牲がなければ、私たちは滅びていたでしょう。
偽預言者や偽りの教えに騙されないでください。
最高のアドバイス:自分で聖書を読んでください!他人の言葉を鵜呑みにしないでください。何回言っても足りません。聖書を読んでください。神は私たちが神を知ることができるように御言葉を与えてくださいました。それが私たちが神を本当に知り、神の真実を知る唯一の方法です。
わたしはあなたの御言葉を心に蓄えます。あなたの前に罪のある者とならないために。
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オリジナルサイト(英語)bibleprophecyandtruth.com
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